やあやあ、さむらいである。
“ツイッター”や、“Facebookページ”等の
“SNS”で“更新情報”をお知らせしていたが、
ここに来て新たに
『Google+ページ』
でも“更新情報”等が通知されるようになった。
『Google+』をされている方は
『フォロー』して頂けると有り難い。
以前に登録を試みたのだが、上手くいかず、
その経緯を説明すると長くなりそうなのでまた、
別の機会に綴らせて頂こうw
前回までのあらすじ
『さむらい物語』とは我輩、さむらいの
『過去の記憶や足跡』と
『パチスロの歴史』を重ねて振り返り、
見ていこうと言う、趣旨の『物語』である。
一部、年齢などの部分は“妄想”もあり、中には
“記憶違い”等が含まれている事がある事も
お断りしておくw
『パチスロ』で生きていく“決心”をしていた
さむらいは将来、
『スロプロ』
になる事を“決意”していた。
しかし、まずは苦労を掛けた両親への
感謝の念から、『野望』を胸に“ホテル”へ
就職したさむらいであった。
この当時、『パチスロ』は
『技術があれば勝てる時代』と
打ち手にとってはこの上ない状況に対し、
『ぱちんこ』は『みなし機』と呼ばれる
連チャン機の“強制撤去”が段階的に進められ、
その“台替機”には最大連チャン数が
『5回まで』に規制されていた。
まさに“ぱちんこ氷河期時代”を迎えていた。
一人部屋の寮生活にも慣れた頃、
配置転換で配属された先はもろ、“体育会系”の
『宴会サービス』
であった。
思い出の機種
“ジャグラー”は『北電子』が販売する
“4-1号機”である。
やはり、我輩とは切っても切れないであろう、
本機、
『ジャグラー』
を語らせて頂こうw
時は1996年。
偶然にも我輩が社会人として世に出たのも1996年であった。
“3号機時代”では、『アポロン』を
ご紹介させて頂いた経緯のある『北電子』の
“再登場”である。
>>さむらい物語 第9話 ~さむらい初の5000枚オーバーの行く末~
今でこそ、大きなシェアを獲得している
『ジャグラー』であるが、当時の『北電子』は
マイナーメーカーに属していた。
我輩が学生時代の頃、隣町の
『リニューアルオープン』
に参加した事があった。
『18時開店』であったが、学業を終えてから
並びだし、遊技台を確保するのでやっと、
といった順番であった。
戦略としては、いつ何時『閉店』を
告げられるかわからぬ状況。
狙うは“瞬発力”のある、『裏物』1択である!
過去にこの戦略で“大勝ち”をおさめていた
その、経験からであるw
しかし、そこまで“機種”を選べる状況でも
なかったがごった返す入場の中、
選んだ機種は『裏物感』あふれる
『クリエーター7』
であったw(ホームメニューの記事横のアイキャッチ画像有り)
実際は“見た目だけ”は
『裏物感満載』だったのだが、
ただの“ノーマル機”であったw
ゲーム性は一転して変わらず、
『左下の告知ランプが点灯したらボーナス確定』
という、ゲーム性であったw
『ジャグラー』が出るまでに『レジェンダ』、
『サーカス』、『プチマーメイド』と
あったがどれも一転して
『左下の告知ランプが点灯したらボーナス確定』
と言う、一切ブレないゲーム性を
押し通してきた“メーカー”である。
周りのメーカーは“大量リーチ目”や、
“技術介入機”を推している中、
『北電子』はブレなかったw
いつしか、その単純ではあるが奥深しい
『演出』が我々、打ち手にも
“認識”されるようになり、販売当初は
『またかよ』
とも、思いもしたが、それは既に
“メーカー”の思惑と言わんばかりに
『ブランド』
と、化して“認知”されていたのである!
いやはや、『北電子』、
『あっぱれ』
である。
そんな、初代『ジャグラー』はホールにおられる、
初級者の方や年配層の方々にとっては、
愛してやまない『ブランド』として
“確立”されたのであった。
初代『ジャグラー』の“告知ランプ”には
豆電球が採用されており、今のような
『ガコッ』と言った音等の演出はなく、
“ひっそり”と光った事から
『ペカる』
と、言う“造語”が生まれたのではないか。
中には『ペカっている』のに気付かず、
空き台になっている事さえ、
日常的に有ったのであるw
その“光り方”は現在も稼働している
『GOGOジャグラー』
が、敢えて、その“光り方”を“演出”している。
『リプレイハズシ』や『小役目押し』と言った
“技術介入要素”の効果も有り、
“設定1”でも甘いと評価されていた。
メイン機種とまではならなかったが、
“初心者層”がメインターゲットであった為、
“高設定”と思わしき台でも、空き台に
なる事が多く、『後ヅモ』が望めた為、
重宝する機種であった。
連日の宴会
さて、当時のさむらいの話しであるが、
『モロ体育会系』
の職場であり、連日の
『お疲れと言う名の大宴会』
で、“疲弊”仕切っていた。
そして、“疲弊”仕切っていた我輩は、
“社会人”としてやってはいけない
『遅刻』
を、やらかしてしまう。
決められた“出勤時間”の“1時間前”には出社し、
当日の“宴席”に備え、備品や開場の準備をし、
諸先輩方が出勤した時には、
すぐにミーティングが始められるよう資料を刷り、
コーヒーを淹れ、備えて、待つ。
これが“当たり前”であったw
今のご時世でもこのような体制であったら
間違いなく、問題となるであろうが、当時、
このような“サービス残業”など、
当たり前に行っていた時代である。
下っ端である、我輩は“激務”を強いられ、
『お疲れ』の席でも帰りたくても帰れず、
と言った生活である。
そして、ついに“やらかした”。
“寮”で行われた“館内放送”で飛び起きる!
『50○号室のさむらいさん、至急管理人室へ』
そのような、“館内放送”が“日常的”に流れており、
まさか、我輩が呼ばれるとは思ってもみなかったが、
呼ばれた瞬間、
『やらかした!!!』
と、察したのであったw
遅刻のペナルティ
それ以来も何度か遅刻したが、
出勤時間はバラバラな職種の為、
実質的な『遅刻』と言う“体裁”は免れていた。
シフトを急遽、変更した扱いにしてくれており、
会社的な“ペナルティ”は免れていたものの、
遅刻した時の“諸先輩方の冷たい対応”ったら
“酷い”ものであったw
今、思えば
『そんな生活を強いられていたらそうなるわ!』
と、“声を大”にして言いたいが、
大きな組織に準ずる者として、言えなかった
のである。
遅刻した当日はほとんど口を聞いて貰えず、
ひたすら謝るしかなかった。
終わってからの『お疲れ』でも迷惑を
掛けていない、別の“宴席”を
担当していた先輩方からも“粛清”を
受ける始末。
このような理不尽な職場が
『宴会サービス』
であった。
総括
まだ、“2部署”しか、経験していない、
我輩であったがもし、“2年目の本配属”で
『宴会サービス』
に配属されたら絶対に辞めよう、
と、心に誓うさむらいであった。
第37話に続く。。。
さむらい物語 第37話 ~さむらい蹴られる~
本日はこれにて御免!
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