やあやあ、さむらいである。
まずは一番上の↑↑↑↑↑↑
『タイトルバナー』
を見てほしい!
ブログ開設3か月記念と1日1万PV(ページビュー)達成記念!
として、“タイトルバナー”を一新させて頂いたの
である。
“PV”に関しては特需的な物で今は
“通常通り”の落ち着きを取り戻しているw
作成してくれたのはもちろん、当“ブログ”で
お馴染みの“リアル門下生”である、
“おすし”である。
我輩の自作した“タイトルバナー”と比べたら
“センス”の差を感じざるを得ないのであるw
恥を忍んで晒すので下記の我輩の
“自作バナー”と見比べてほしいw
この“クオリティ”を“スマホ”一つで合間の時間で
作ったと言うのであるから驚きである。
その他にも記事の“アイキャッチ画像”など、
細かい所でも尽力してくれている。
最近、更新したブログ村の
『ペカるさむらい』
も、“ファンキージャグラー”をイメージした物に
替えさせてい頂いている。
『ペカるさむらいファンキーVER.』はこちらから
我輩の“ランキング”で確認されたし!
前回までのあらすじ
『さむらい物語』とは我輩、さむらいの
『過去の記憶や足跡』と
『パチスロの歴史』を重ねて振り返り、
見ていこうと言う、趣旨の『物語』である。
一部、年齢などの部分は“妄想”もあり、中には
“記憶違い”等が含まれている事がある事も
お断りしておくw
『パチスロ』で生きていく“決心”をしていた
さむらいは将来、
『スロプロ』
になる事を“決意”していた。
しかし、まずは苦労を掛けた両親への
感謝の念から、『野望』を胸に“ホテル”へ
就職したさむらいであった。
この当時、『パチスロ』は
『技術があれば勝てる時代』と
打ち手にとってはこの上ない状況に対し、
『ぱちんこ』は『みなし機』と呼ばれる
連チャン機の“強制撤去”が段階的に進められ、
その“台替機”には最大連チャン数が
『5回まで』に規制されていた。
まさに“ぱちんこ氷河期時代”を迎えていた。
新たに配属された研修先は『宴会サービス』は、
モロ、“体育会系”の職場であった。
そんな中、初めて任された『持ち回り』で
“失態”を犯し、先輩にガチ蹴りを食らう
さむらいであった。
思い出のメーカー
“スーパードラゴンアルファ”は
『日活興業(現ネット)』の“4-1号機”である。
“ネット”は元々、“筺体屋”をメインとしていた
メーカーであり、“4号機”当初は旧名
『日活興業』であった。
“3号機”では“3-1号機”で“スペースバトル”、
“3-2号機”で“スペーススペクター”と、なぜか、
“スペース推し”であったが『スぺスぺ』等と
呼ばれ、親しまれていた。
“スペースバトル”では“BIG”を
強制スタートさせる『セット打法』があった。
“マイナー機”であった為、我輩は試した事はないが
以下の手順で“BIG”がスタートしたらしい。
↓
3枚投入し、素早く1G消化
↓
ウェイト中に
『3枚投入→精算押す→レバーON』
を素早く消化する
↓
3枚戻って来る
↓
1枚投入し、リールが勝手に回りだしたら成功
↓
中央ライン以外に7をテンパイさせる
↓
テンパイライ上の右リールに7をビタ押し!
↓
ビタ成功で見事“BIG”スタート
そんな『日活興業』が“4号機”になり、推したのが
『ドラゴンシリーズ』
であるw
“ドラゴンエース”に始まり、“ドラゴンエースV”、
“スーパードラゴン”、となり、写真の
“スーパードラゴンアルファ”である。
そして、拘っていた『ドラゴン』を捨て、
『ガルウィング』が登場する。
どの“機種名”を聞いても『裏物感』しかしないw
だが、我輩の記憶する所では、バッキバキの
『裏物天国』であった、学生時代、
“第2のマイホ”としていた神奈川の店舗でさえ、
『裏物』なのか、波が荒めなのか、
といった、中途半端な台ばかりであった。
そんな中、我輩の社会人デビューと同じ、
“1996年”に『日活興業』から
『ネット』
に社名変更し、『ネット』第一段として
販売したのが“バラクーダ”であった。
筺体は『日活興業』の時のままであり、
なんとも変わり映えのない“機種”である。
打った事?
『ない!』
そして、こちらも打った事がないが、次機種の
“ネイバル802”でいよいよ、新筺体となり、
ここでやっと、聞いた事のある
“ドラキュラ”の登場となる。
これまた、“技術介入機時代”に
通常時の目押し不要、“リプレイハズシ”の
効果もわずか、“8枚”と言ったノーマル路線であった。
当時はまだ、マイナーメーカーであった
“ネット”であるが、初の“CT機”に始まり、
初の“ストック機”と言った、
時代を先走る台を排出するメーカーにまで
“成長するのであった。
当時のホテルマンの給料
生々しいが当時の“給料”の話しをしよう。
ホテル業界は総じて給料が安い。
我輩が勤めていたホテルは“新宿”に位置し、
従業員は“1500人”以上を抱え、大手企業を
親会社に持つ、そこそこの規模の
“ホテル”であった。
それ程の規模でも“給料は安かった”。
『宴会サービス』に研修として配属され、
初めての“給料”を確認し、“驚愕”した。
何に“驚愕”したのかと言うと、
『給料の差』
である。
部署が変わるだけでこんなにも
変わるものなのか?と。
最初の配属先であった“ベルボーイ”の
『ロビーサービス』では夜勤があり、
深夜勤務、宿泊手当などが出ており、
月の“残業時間”は“10~15時間”程度であった、
と記憶している。
それに比べ、『宴会サービス』では夜勤がない
代わりに“残業時間”が“30~50時間”
あったのである。
会社の“拘束時間”は圧倒的に
『宴会サービス』の方が増えていた。
その“拘束時間の差”が“給料”に反映されていた。
実際に『ロビーサービス』で貰っていたのが
税金や寮費等の“諸経費”モロモロ差し引いて、
手取りで
『130,000円』
に対し、『宴会サービス』はと言うと、
『160,000円』
と、手取りで“30,000円”程の差が生まれていたw
労働時間とその対価
当時の我輩は“サラリーマン”であり、
“サラリーマン”とは自分の労働力、すなわち、
労働時間を売り物とし、それを買ってくれる
会社はその対価として、“給料”を支払ってくれる
ものである。
そう、認識していた。
残業をすれば、通常の時給計算した物に比べ、
“3割”程上がる。
“残業時間”の差が“給料”の差として
反映していたのである。
“先輩”方や“リーダー”の方々は“10分”でも多く、
残業が付けられるよう、粘っていたが
我輩からしてみれば無駄であり、
“非効率的”にしか見えなかった。
普通なら“30,000円”手取りが増えたら
喜ぶ所かも知れないが我輩は違っていた。
なぜなら、“パチスロ”を打っていた方が稼げた
からであるw
“クランキ―コンドル”を“1日”打てば稼げる
日当をなぜ、ここまで会社に拘束されなければ
ならぬのか、理解に苦しんでいた。
意気込み
当時の『宴会サービス』では残業が増え、
それは会社の“拘束時間”が増える事を意味し、
『お疲れ』は連日行われ、
休みの日にしか“稼働”が出来なかった。
4か月間の辛抱であったが、
“苦行”でしかなかった。
『お疲れ会』の席でも、“本配属”はどこを
希望するのか、と、言った話題をよく、
振られたが我輩は迷わず
『ロビーサービスです!』
と、答えていたw
普段の新入社員であれば、心にもなくとも
『宴会サービス』と答える所であろう。
残り“3カ月”しかいない、配属される
見込みのない後輩に誰が仕事を
教えるというのか。
だが、我輩は違う。
『社交辞令』など、“ク○食らえ”である。
残り“3カ月”しかいれないので出来るだけ
他部署の仕事を教えて下さい、それを自分の武器にし、
『ロビーサービス』で活かします!
と言っていた。
その意気込みを買ってくれたのかはわからぬが、
我輩の直属の先輩である“吉永”(仮名)さんは
本配属では来ないとわかっている我輩に対し、
“誠心誠意”、仕事を教えてくれた。
『バリバリのモロ、体育会系』
な部署であったが、“良き先輩”に
巡り合えたと思う。
だが、組織の中には“良い先輩”ばかりではなかった。
第39話に続く。。。
さむらい物語 第39話 ~さむらい番長と対面~
本日はこれにて御免!
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